Column2016/08/3

【Column-011】緑の風-11 その覚悟

 

 細貝萌は今、ドイツ・シュツットガルトにいる。

 どんなに、この時を待ち望んでいただろう。プロサッカー選手にとって、自らの力を望まれるクラブこそ、その存在意義を示せる場所だ。しかしヘルタ・ベルリンでは想いを遂げられなかった。指揮官の信頼を得られなくては、己の力を注ぐことすらできない。

 日本からベルリンに渡ってからは苦渋の時を過ごした。キャンプに参加し、その後も黙々とトレーニングをこなしていると、パル・ダルダイ監督は「ここでメニューから離れて、お前はもうロッカーに戻れ」と首を振る。意を汲み取り、チームメイトが鍛錬を続ける中で、ひとりクラブハウスへと歩を進めた。チームが一丸となって新シーズンへ向かう中で、自分は仲間として認められない。その辛苦は如何ほどのことか。ヘルタの練習場は広大で、グラウンドからクラブハウスまでは徒歩でかなりの時間を要する。夏を迎えて爽やかな空気が漂う深緑の歩道を、彼はどんな思いで歩いたのか。コミュニティの中で自らの存在価値を否定され、阻害される環境を想像してしてほしい。彼はそれほどの苦悩を味わい、それでも新たなる未来に思いを馳せ、前へ進もうともがき苦しんでいたのだ。

「去年の夏にブルサスポルへ移籍する時にも同じような境遇になっていたからね。今回も一度ベルリンへ戻ることになった時には、こういった立場になることを予想していたから、それほど落ち込むことはなかったよ。本当はオフ期間に移籍先を決定させるのがベストだったんだけど、自分でも焦りたくはなかったから」

 ヘルタ・ベルリンでは、チームメイトやクラブスタッフと良好な関係を築き上げてきた。浦和レッズの後輩である原口元気とは母国語で自らの心境を正直に吐露した。

「元気とは一緒に居た時間が多かった。その中で、今の監督に変わった瞬間からチーム内での僕の立場は厳しく、冗談っぽく彼に愚痴をこぼしてしまうこともあった。彼とは日本語で話せるし、だからこそ、自分の本当の気持ちを吐露できたからね。でも、今思えば僕の悩みなどは全て、本当は自分だけで解決しなきゃいけなかったと思う。しかも元気自身はヘルタで確固たる立場を築いているわけだから。でも、彼は僕の話を真剣にそして、わざと深刻ぶらずに聞いてくれていた。正直、申し訳ないなと思った。決して良いことじゃないと思うから。それでも僕の気持ちを考えてくれて、いろいろな話をしてくれた彼に、本当に感謝している」

 新たな移籍先が決まった時、原口から筆者にすぐメールが来た。

「ハジ君の移籍が決まったね。良かった。いいクラブだよね!」

 プロサッカー選手として、律することがある。辛苦を乗り越えて、受け入れるべきことがある。原口は間近で同僚の境遇を目撃してきた。すでにチームの一員と認識されていないのに、広報スタッフから来季の宣材写真の撮影を要請された。職務として当然の振る舞いだが、当事者からすれば、ならば指揮官の態度を改めて欲しかった。練習試合でユース選手や自分の息子が出場する中で、何故プロの自分がグラウンド外周のジョギングを命じられるのか。練習メニューから外されてクラブハウスのロッカールームに戻らなければならないのか。選手としての尊厳を踏みにじられているのに、我慢する理由はどこにあるのか。その全てを斟酌したうえで、原口は先輩に寄り添い、その心情を理解してくれた。

 それでも細貝は言う。

「正直本当に厳しい時間だった。けど、恨んではないよ。僕の人生にとっても、今回は重要な時間だったから。本当に良い経験ができたし、また人として成長できたと思っているからね。それに、これが自分の実力だから」

 自らの力を評価し、それを求めてくれる人物は必ずいる。

 ドイツ南西部に本拠を置く古豪は、不本意にも2部降格の憂き目に遭った。チーム再建を担ったのは、かつての恩師だった。自らの力を純粋に求められる場所。その信念に合致した場所は他になかった。細貝萌は躊躇なく、シュツットガルトの再建に心血を注ぐ覚悟を決めたのである。